1925年9月。悲惨なバス事故がフリーダ・カーロの人生を変えた。ボーイフレンドのアレハン ドロ・ゴメス=アリアスと乗っていたバスは、路面電車と衝突し、数名の死者と多数の重傷者 を出した。フリーダは瓦礫の中から、血と金粉にまみれた半裸状態で、鉄棒に突き刺されて発 見された。この事故で彼女の背骨、肋骨、骨盤、鎖骨は砕け、右足はつぶれた。もともと小児 麻痺で数年前から不自由だった右脚は、10ヶ所以上が骨折した。鉄棒は左臀部から膣を貫通し て腹部に深い傷を残し、もう子は宿せないと思われた。何ヶ月もギブスやコルセットや牽引で 固定され、乱暴な手術が繰り返された。しかし何よりフリーダを惨めにさせたのは、悲惨な症 状が引き起こす孤独と寂しさだった。彼女は絵に感情をぶつけて時を過ごした。写真家である 父のギリェルモと母のマティルデは、手術代を工面するために家財を売り払った。家計は火の 車だったが両親はフリーダに芽生えた絵画への関心を応援した。寝たきりの娘に特注イーゼル を贈り、娘が自分自身をモデルにできるようベッドの天蓋に鏡をつけた。




歩けるようになると、フリーダは大胆にも既に有名な壁画家だったディエゴ・リベラを 訪ねた。彼は作品はもとより、若きアーティストの熱心さと美しさに魅せられた。この 出会いはどちらの人生にとっても意味のある瞬間となった。「そのときは気づいて いなかったが、フリーダはすでに私の人生でもっとも重要な存在になっていた」と、 ディエゴはその出会いについて語っている。フリーダにとってディエゴの励ましは芸術上 欠かせないものだったが、後に酷い裏切りを受けてからは、ふたりの関係について少し 違った解釈をする。「私は人生でふたつの大きな事故に見舞われた。 ひとつは路面電車にひかれたこと。もうひとつはディエゴよ」。



1929年8月21日、ディエゴとフリーダはコヨアカンで結婚した。ディエゴから財政的な援助を得られることになっても、フリーダの母はふたりの結婚に顔を しかめた。「まるで象と鳩の結婚」と言い、21歳の年齢差や彼の有名な女好き、そして彼の巨 体に嫌悪を示した。写真家のティナ・モドッティや壁画家のシケイロス等のアーティスト仲間 も、この結婚がうまくいくか怪しんだ。しかしフリーダとディエゴは、互いのために生まれた と信じ、相手への貞節でなくとも忠誠を誓った。先妻のルペ・マリンも、ディエゴとフリーダ の夫婦生活で大きな部分を占めた。最初こそ互いに嫉妬しつつも、やがてルペとフリーダはよ き友になった。
1930年、ディエゴはアメリカで壁画の仕事を任されると、フリーダとサンフ ランシスコ、デトロイト、ニューヨークを回り、公共建築から個人邸まで次々と壁画を制作す る。行く先々でふたりは歓迎された。「ディエゴはそれをとても喜んでいた」とフリーダは語 る。「彼は皆にとって、お菓子のたっぷり入った大きな壺【ルビ:ピニャータ】のようだっ た」。ディエゴはお世辞に酔い、数々の情事にふけった。フリーダは¥、故郷メキシコを恋し がった。その間にフリーダは懐妊。フリーダは胸をときめかせるが、ディエゴは彼女の体を案 じるのだった。案の定、ほどなくフリーダは流産してしまう。


心の痛みや寂しさを「ヘンリー ・フォード病院」(32)、「メキシコ・アメリカ国境上の自画像」(32)、「私の衣装が掛か っている(ニューヨーク)」(33)などの絵にぶつけた。メキシコからの母危篤の報にフリー ダが戻ると、妹のクリスティナは夫と別れていた。 母の死を看取ったフリーダはメキシコに残りたかったが、 ディエゴとネルスン・ロックフェラーとの間にトラブルが生じたと聞き付け、ニューヨークに急いだ。ディエゴがロックフェラー・センターの壁画に レーニンの顔を描いたため、ロックフェラーはディエゴを解雇して壁画を壊した。ディエゴは怒り、落胆した。
ディエゴとフリーダは1933年12月に メキシコへ戻り、友人のフアン・オゴールマンが建てたサン・アンヘルの家に引っ越した。メキシコ市南部のコヨアカンに近いその新居は、ディエゴと フリーダ各々のふたつの家が橋でつながっている。その家で、ディエゴはフリーダの妹クリスティナに手を出してしまう。 ディエゴはフリーダに、亡命したロシアの革命家レオン・トロツキーのために家を用意してほしい と頼む。ディエゴの嘆願で、メキシコのカルデナス大統領からトロツキーに亡命許可が下りる。フリーダはディエゴの申し出を受け、家族の家を提供する。1937年1月、トロツキーと妻のナタリアは、武装兵やマシンガンに囲まれ窓は煉瓦でふさがれ、要塞と化したフリーダの生家に移り住む。



トロツキーはその才覚、知性、情熱、勇気でフリーダとディエゴを魅了する。ディエゴ夫妻とトロ ツキー夫妻はテオティワカンの遺跡を訪ね、政治や文化について議論を交わす。トロツキーとフリ ーダは互いに惹かれ合う。共に滞在していたシュルレアリストのアンドレ・ブルトンが、フリーダ の絵の賞賛者となる。 彼女の作品を見るなり「何てことだ。我々がヨーロッパでシュルレアリストについて定義しようとしていることを、君はすでに実践している」と驚嘆した。ブルトンはフリー ダの絵を「爆弾に結んだリボン」と評し、彼女の個展をニューヨークとパリで開くと約束する。 メキシコで過ごした2年の間に、フリーダとトロツキーは深く惹かれ合っていったが、トロツキーは 去っていった。フリーダは独り立ちすることを決意する。ブルトンの個展を開くという約束は1939 年1月に実現し、ルーヴル美術館が「自画像(額縁)」(38)を買い上げる。ルーヴルにラテンアメ リカのアーティストの絵が飾られるのは初めてのことであった。しかしフリーダはパリの知識人や批評家たちの気取りにうんざりし、ディエゴやメキシコが恋しくなる。



ヨーロッパでの成功に励まされ た彼女はメキシコに戻り、ディエゴとやり直したいと熱望する。1939年、家に戻るとディエゴが離 婚を切り出した。彼はカリフォルニアへ移ろうと考えていたのだった。フリーダの体調は急激に悪化 する。しかし、この暗い時期こそがフリーダの芸術家として最も実りある時期であった。「二人のフ リーダ」(39)、「断髪の自画像」(40)、「夢」(40)、「森の中の二人の裸婦」(40)などの数々の傑作が生み出された。 トロツキーが暗殺され、フリーダは警察から尋問を受ける。ディエゴは行方をくらました。トロツキーの死とディエゴに捨てられた余波で、フリーダの容体はさらに悪化する。彼女の足指は壊疽にかかり 切断、背中の手術も繰り返され、腎臓の感染症や他の合併症にかかる。彼女は仰向けに吊され、鉄のコルセットを着せられた。「絵が描けるように私を直して」。フリーダは回復することだけを考えていた。ディエゴが再婚の申し入れをしてきた。彼女は生涯の恋人が自分に戻ってきてくれたことに慰められ、再婚に応じた。



1940年10月に2度目の結婚をしたフリーダとディエゴは、一筋縄とはいかないが情熱的な結婚ならびに仕事のパートナーとしての関係に落ち着いた。彼女は生家に戻り、その家をコバルトブルーに塗り替えた。フリーダはその青い家を、アート、民族装飾品、植物、サル、オウム、メキシコ 犬、鳥、シカなどの無数の動物たちで埋め尽くした。手術と入院の繰り返しがもたらす痛みは「折れた 背骨」(44)、「希望なく」(45)、「モーゼ」(46)などの最高傑作を生みだした。 1950年の9ヶ月に及ぶ入院と1953年の右脚切断の際には、ディエゴがフリーダの側に付き添った。 鎮痛剤に頼り切りの生活と絶えることない感染症や合併症に、ついに彼女の体は持たなくなる。1954 年7月12日の夜、肺炎をこじらせたフリーダは、ベッド際にディエゴを呼んだ。結婚25周年の記念にと、結婚記念日はまだ2週間先ではあったが、アンティークの指輪を彼にプレゼントする。その夜、 彼女は永遠の眠りについた。1954年7月13日、47回目の誕生日を迎えた1週間後であった。



1980年代半ばまで国外では無名であったフリーダは、今や世界で最も人気の高い女性画家となり、 世界のオークション記録をつねに塗り替えている。フリーダとディエゴに関する書籍は英語とスペイン 語を合わせると100冊を越え、アメリカの郵便局はフリーダ・カーロの記念切手を発行した。フリーダは 栄えあるアメリカの郵便切手になった初のラテンアメリカ女性である。フリーダの人気がここまで高騰したのは、彼女が私的なもの、芸術的なもの、政治的なものを、 あれほど自然で、野蛮なまでに素直な形で合体させ、人生とアートを融合したからだ。 フリーダは伝統的な民族衣装やアクセサリーや髪型によって、芸術作品はもちろん、政治や文化に関する 意見を外見で表現するだけでなく、自分の恐怖、痛み、苦しみ、執着、愛を、革新的かつ衝撃的な、 心に残るイメージに描き出した。生物学の知識と痛みに満ちた身体をもって、ある作家がほかでもなく 「メキシコの征服された長い歴史や、苦悩、プライド、圧迫」の体現と評したその原動力と感情とを、 時に恐ろしく、痛ましく、心を揺さぶるほどに描写しながら、フリーダは剥き出しの自己を捉えた。
フリーダのディエゴに対する執着は、彼女の「第3の目」、子供、あるいは別の片割れとして彼を描いた 数多くの絵が示す通りである。数々の障害や裏切りにもかかわらず、仕事と革命運動におけるふたりの パートナーシップは、1928年の出会いからフリーダの死まで、生涯にわたって続いた。


「すばらしい壮大なラブストーリーだ」とディエゴ・リベラを演じたアルフレッド・モリーナは語る。
「彼らは2度結婚し、政治活動、芸術への愛、自分たちがやっていることの意義を共有しながら、並は ずれた人生を送った。彼らは恋人をも共有し、まったく因襲にとらわれないライフスタイルを送った。 それは当時の人間にとっては刺激的であり、ショッキングでもあった」。今日もなお、そんなふたりに 刺激や衝撃を受ける人たちもいる。ディエゴとフリーダのオープンな結婚と彼女が両性愛者だったこと は互いを嫉妬に駆り立てただけでなく、ふたりの関係を永続させ、互いを夢中にさせた。

「それは妙な恋愛関係だった。とても、とても独特な関係」と、フリーダを演じたサルマ・ハエックは 語る。「ディエゴはいつでも自由でなければならず、常に世話を焼かれていなければならなかった。 フリーダはディエゴを無条件に愛し、そんな彼女の包容力がディエゴを変え、彼も無条件の愛を捧げるようになる」

「ふたりの愛は、本物だったからこそ続いた」と、ジュリー・テイモア監督は語る。 「その愛はアーティストかつ魂の友として互いを尊敬する気持ちに始まり、知性でも芸術でも性的にも 深く惹かれ合うようになっていった。フリーダの強い自由への意識と独立心はディエゴに適し、彼が 自分にとって励みやインスピレーションの源となっても、彼を束縛することはなかった。危機や別離状態の時も、 深い部分では常に誠実さと愛があった。ディエゴはフリーダが最も沈んでいる時期に戻ってきて、 彼女に『君との関係が恋しい』と言う。彼らはお互いに必要だった。ふたりは一緒にいたとき、 ひとりでいるよりもずっと大きくなれた」ディエゴとフリーダの愛と芸術が続いた訳をハエックはこう考える。 「ふたりは相手が何者であるか、そして自分たちが何者であるかを互いに見つけたかった。 フリーダには勇気があったから、あるがままの自分でいられ、人生をあるがままに受け入れ、 苦しいときでさえも一瞬一瞬を楽しんだ。私はそこに触発される。彼女の情熱は私をも情熱的にさせる」